六ツ美のあの肉

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第1回「創業の原点」

創業からのあゆみ

六ツ美養鶏加工協同組合は、2027年に創業65周年を迎えます。
節目の年を前に、会長 宮本一彦に創業当時から今までの出来事や想いについてインタビューし、毎月30日に掲載していくこととなりました。
第1回となる今回は、「創業の原点」について話を聞きました。

 

六ツ美養鶏加工協同組合が設立されたのは、1962年(昭和37年)6月30日のことだ。初代代表の名倉 保さんは、私より30歳ほど年上の従兄で、昔から頼りがいのある人だった。
周囲には家畜センターや牧場があった。また、20~30羽程の鶏を飼っていた農家が飼育をやめるようになり、一方で多数の鶏を飼育する専業化した養鶏家が増えてきていた。
鶏は卵を産んで家計を支える大切な存在だったが、卵を産まなくなると処分に困る。衛生面や手間の問題もあり、「鶏を専門で処理できる場所が必要だ」名倉さんはよくそう話していた。
そうした地域の課題を解決するために、六ツ美養鶏加工協同組合が立ち上げられた。
最初の処理場の建物は16畳程しかなく、設備は簡素で、ほとんどが手作業。それでも、農家が安心して鶏を持ち込める場所が出来たことは、地域にとって大きな一歩だった。

私は愛知県立安城農林高等学校を卒業後、野菜を栽培して知立市の市場へ出荷していた。
ちょうどその頃、組合では名古屋の南区から港区の4軒の精肉店へ鶏肉を卸していたが、配達の人手が足りず困っていた。
名倉さんから「週に3日ほど、出荷のついでに名古屋まで納品してくれないか」と頼まれ、私は迷わず引き受けた。

当時は冷房車などなく、相棒は組合のダットサントラックだった。
竹籠を積み、その中へ解体した鶏肉を1羽分ずつ袋に入れ丁寧に納める。竹籠ごとにシートを被せ、夏場は氷を載せて幌で覆い、岡崎を出発した。「どんな悪天候だろうが、待っとる人の所へ必ず届けたい」そんな思いが、私を毎日走らせていた。

しかししばらくすると配達量が増え、嬉しい反面、農業との両立が難しくなってきた。
同じ頃、従業員だった名倉さんの息子さんが別のト場へ行くことになり、組合を離れた。名倉さんから「一彦君、うちに入ってくれんか」と声をかけられた時、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「自分も地域の役に立てるなら、全力でやろう!」
そう思い、野菜作りをやめて入社した。この決断が、私の人生を大きく変えることになった。

入社後は、配達だけでなく、集鳥、毛抜処理、親鳥解体と何でもやった。
ミゼットに籠を積んで養鶏家を回り、鶏を集めて処理場へ運ぶ。
建屋が狭いので、工程の多くは屋外のトタン屋根の下で行われた。
首を切った鶏を、円錐型の器具に頭から入れて血抜きをする。大きな「ハソリ」に薪で湯を沸かし、63度程の湯に鶏脚を持ってジャブジャブ漬けてからドラムピッカーで羽を落とす。井戸水につけて冷やしこみをする。
どの工程にも、「手間を惜しまない心」があった。

私が30代半ばになった頃、名倉さんに呼び出された。
「後をついでくれないか」その言葉を聞いた瞬間、迷いはなかった。
「自分がやるしかない」そう強く思った。農業とかけもちしたアルバイトの配達から始まり、処理場の発展を支える立場へ。
私の人生は、親鶏とともに変わって行った。

会社の原点は、「手間を惜しまないこと」「誰も見ていない価値を信じること」「届けるべきものを必ず届けること」。
変わりゆく時代の中で、変わらずに守り続ける心だ。
昭和の小さな町で生まれたその想いは、今も会社の中で静かに息づいている。

六ツ美養鶏加工協同組合設立
昭和37年(西暦1962年)6月30日 岡崎市六ツ美地内の養鶏家の出資による。
初代組合長(代表理事) 名倉 保